苦しむ子供たちを救おう

いじめによる自殺がつづく。こうしている今も「キモイ」と言われたり、身体的なことをからかわれたり、囲い込まれ暴力を受けたりして、傷ついている子どもたちがいる。「いじめられる側にもそれなりの原因がある」と言う考えはけっして認めることはできない。どんな人にも欠点や弱点はある。しかし、それはその人を傷つけたり、辱めたりしていいという理由にはならない。
 苦しんでいる子どもたちに伝えたい。君は弱くないし、いじめられる理由もない。休息し、安心できる場所に避難してほしい。それは君たちの権利だ。君の苦しみを理解する人間は必ずいる。もし「君にも問題はないか」「つよくなれ」というおとながいれば、それは間違っている。

 子どもの強いストレスが、いじめや暴力として噴出している。だからこそ言いたい。「人をいじめても、君の抱えるイライラは解決しない」。「君には、おとなによって受け止められ、支えられる権利がある」と。
 ヨーロッパでは中学生になると傍観者が減り、いじめを止めようとする生徒が増える。日本ではその逆になると研究者は指摘している。おとなに近づくにつれ、いじめを容認する傾向が強まっているのは、社会自体が「いじめ社会」になっていることの反映ではないのか。

 弱肉強食の経済社会は、労働条件や社会保障を後退させ、多くの人々の人間的な暮らしを壊している。競争主義の教育も、子どもをふるいわけ、人間的な成長をゆがめている。こうした社会や教育のあり方を変え、すべての人の人間としての尊厳を取り戻すことが、おとなの責任として問われている。

 子どもの成長を支える学校の取り組みは重要だ。「先生に話しても解決しない」という声が一部にあるのは、重く受け止めなければならない。教育行政は上からの命令で現場を縛るのではなく、教職員が本音で話し合い、チームワークをもって、全力で子どもに向き合えるような、条件整備に心を砕くべきだ。
 子どもたちは、それぞれの立場でいじめのことを問い、悩み考えている。本来子どもは正義感や思いやりを持っている。いじめをなくしたいと思っている。こどもは、守ってくれる人がいれば、シグナルを出す。受け止めるおとながいれば、異議申し立てもする。この力を、こどももおとなも大事にすべきだ。